第二話 裏通りの出会い
雨は一向に止む気配がなく、むしろ強さを増していた。水曜日の夕方、僕は疲れた足を引きずるように駅を出た。今日も成果のない一日だった。午前中の内見では、お客さんの表情から既に「ここではない」という答えが読み取れた。午後の見込み客への電話も、「まだ検討中です」という言葉で終わった。
いつもの経路は駅前の大通りを真っ直ぐ行くものだったが、今日は傘を持っていなかった。アーケードのある商店街を通る。雨を避けるために選んだ、単なる気まぐれだった。
「久しぶりだな、この道」
学生時代、写真スポットを探して歩き回った記憶が蘇る。「この裏通りは猫がよくいるんだよな」そう思った瞬間に猫が路地を横切った。地元の人しか知らない裏通りに、不思議な魅力を感じていた頃が懐かしい。今の僕は効率の良い最短経路しか歩かない。スマホの地図アプリが導くままに。
商店街を抜けたら、雨はあがっていた。大通りに戻らなくてもまっすぐ行けば駅までいける。駅近くまで辿りついた所、「またお待ちしています」という店主の声が聞こえた。そちらを見ると、アンティークの時計屋さんのようだ。
「MAYRO Watch & Repair」
青いオーニングに白い文字、落ち着いた木の外装。曇天の中、暖色の光を放っていた。なぜか足が勝手に動き、僕は店の前に立っていた。窓越しには店主らしき人が時計の修理をしている様子が見える。手前のガラスケースにはたくさんの時計が展示されている。
「こんな店、あったんだ」
思わず呟いた僕の言葉が、また振り出した雨音に紛れる。 扉を開けるべきか迷った。雨宿りと言い訳をすれば、少しだけ中を覗くことができるかもしれない。それとも、このまま通り過ぎるべきか。
「どうぞ、お入りください」
戸惑いを察したかのように、店内から声がかかった。僕は意を決して、ドアを開けた。 チリンと小さな鈴の音が、静かな店内に響いた。柔らかな照明に包まれていた。アンティーク時計なんて縁の遠いものだった。時間はスマートフォンで充分、そう思っていたが、店内のシックな趣きに、こうした拘りができる大人もいいなと、思ってもいなかった憧れも生まれていた。
「素敵なお店ですね」
思わず口にした僕に若い店主が応える。穏やかな微笑みが印象的だった。 「ありがとうございます」 「いえ、雨宿りに失礼します。素敵な店ですね」 僕は言い訳を口にしたが、店主は気にした様子もなく、「ごゆっくり」と言って微笑んだ。
店内を見渡した。何に使うかわからない機械とシックな音楽が店内に流れている。ガラスケースの向こうに並んでいる時計はどれも高そうで自分には縁がないものに思えた。
1つの時計に目が止まる。OMEGAと文字盤に書いてあった。OMEGAはギラギラした時計のイメージだったが、この時計はとても静かな落ち着きを感じさせる。そう、大人の余裕のような。 「これもオメガなんですね」
僕の問いに、店主は静かに口を開いた。
「そうなんですよ。オメガのコンステレーション、1962-1970年代製です」
びっくりした・・・。中村部長と同じぐらいの年だ。
「そんな時計が今でも動き続けるのですね」
「時計が好きなんですか?」と店主が尋ねた。
「いいえ、特には…ただ、フンイキに引かれて」 少し気まずくなった。雨の音が静かになり、僕は窓の外を見た。まだ小雨は降っているが、帰れないほどではない。
店主は腕時計を手に持たせてくれた。時計をひっくり返すとケースの裏にエンブレムがある。星と・・・なんだろう?
「天文台で精密時計の検定が行われた時に2度の世界記録を樹立し6度の優勝を果たして、究極の精度の称賛として作られたエンブレムです。天文台とその上8つの星が描かれています。」
「凄い時計なんですね」 エンブレムの意味もそうだが、建物で考えてしまった。1970年製としたら今年で55年だ。築55年の物件なんて余程じゃない限り取り扱えない。そんな時計が目の前にあって、しかも今も正確に時を刻んでいる。こんな凄いことがあるだろうか。「50年以上も時を刻む時計」その事実が心に突き刺さった。
「これいくらですか?」 金額を聞いて、僕は一瞬躊躇した。そんなに貯金に余裕はなかった。だが、不思議と後悔する気持ちはなかった。
「購入します」 支払いを済ませ、僕は左腕に腕時計を巻いた。不思議と、長年着けていたかのようにしっくりくる。 僕は店を後にした。雨は既に上がり、濡れた路地に夕暮れの光が差していた。 左腕の時計を見ると、時刻は18時23分。これから始まる「新しい時間」を、僕はまだ想像できなかった。ただ、久しぶりに感じる高揚感が胸の中にあった。
帰宅の道すがら、僕は不思議な気持ちに包まれていた。いつもと同じ風景のはずなのに、どこか新鮮に見える。街灯の光、行き交う人々の表情、遠くで鳴る電車の音。すべてが、写真に収めたくなるような瞬間に思えた。
